深呼吸倶楽部 しんこきゅうくらぶ 城戸真亜子 アート散歩 美術館 第10回 「没後100年 青木繁展」


●城戸真亜子(きど まあこ)
画家。武蔵野美術大学油絵学科卒業。
1981年 女流画家協会展、1988年VOCA展入選。
1986年よりほぼ毎年個展開催。近年は「水紋」をテーマにした作品を制作。
1997年 京都木津にオブジェ
1997年 東京湾アクアラインPA海ほたるに壁画
1998年 静岡駅ビルに壁画
2005年 荒川区南千住の再開発地にオブジェなど、パブリックアートも多数製作。
画業のかたわら食器デザイン、エッセイ執筆、テレビ出演など幅広く活動を展開。
◆城戸真亜子公式ホームページ http://www.maako.jp/
第10回 「没後100年 青木繁展」
波打ち際を歩く男たち。今日の漁で仕留めた獲物でしょうか、大きな魚を担いでいます。赤銅色の肌は彼らが海の民である証・・・明治洋画の傑作《海の幸》で知られる、明治を代表する画家、青木繁(1882-1911)。没後100年にあたる今年、大規模な回顧展が、東京駅からほど近いブリヂストン美術館(石橋財団ブリヂストン美術館)で開催されることになりました。

青木繁 《海の幸》 1904年 石橋財団石橋美術館
私にとっての「青木繁」は、美大を受験する際に油絵のお手本として、そのデッサン力や表現力を学んだ作家で、彼が夭折した画家であることを含め、その生涯を詳しく知る機会はこれまでなかったように思います。
今回の展覧会では、代表作《海の幸》ほか油彩、水彩、素描など200点を超える作品や資料が見られると聞き、この機会に改めて青木繁の生涯を追ってみようと思い立ちました。

今回は同館の学芸員、貝塚健先生にお目にかかり、この大規模な展覧会の見どころをお伺いすることが できました。
「この展覧会では、青木繁の全貌を見てもらうことを念頭に置きました。作品だけではなく、青木繁の人間的な横顔や、彼が亡くなったのちも残された人を動かしたというか、影響を与えたところなども掘り下げています。青木繁は30歳にならずして亡くなったのですが、残された友人たちが青木繁展を開いたり、画集を出版したりしましたし、さらに後年、美術史研究家の河北倫明先生が新たに青木繁を論評して再び世に送り出したりしました。そうした100年のあいだの積み重ねを見て頂くための展示構成としています。」

会場の入り口ではまず「自画像」が私を迎えます。東京美術学校を卒業する時に描いた作品だそうですが、画面の左下に「かつて東京美術学校に在るの日青木生」とあり、いつの日か高名になるであろう自分を想定して書き込んだものであることがわかります。
鑑賞者に対し、ややはすに構えたように見えるまなざしには、自分が只者ではないという気配を漂わせているかのようです。なんという自信!でも、美術を志している若者にありがちな、ナイーブさの上に築きあげたある種の「はったり」のようにも思えます。
青木繁 《自画像》 1903年 石橋財団石橋美術館さらに、最初の展示室に進むと、東京美術学校在学中に描いたもう1枚の《自画像》があります。あえて下書きのような朱色の輪郭線を残し、暗い色調の背景から浮かびあがる上半身。眼窩に宿る光が画家として生きる決意の生々しさを伝えます。画学生のひとつのモデルですが、強い自意識、若いからこそ許される傲慢さのような自信、他人と違う自分を作品に残すタッチの激しさ、生々しさで伝えようとするスタイルです。うーん、懐かしい!かつて、このようなタッチを真似する画学生が私の周りに何人もいました。

事実、青木繁は在学中から高く評価され、1903年、弱冠21歳で白馬賞を受賞、画壇にデビューしていました。また青木繁は、よく勉強する人でもありました。貝塚先生のお話が続きます。
「当時は簡単に外国に行けるわけではなかったので、外国の画家の作品などは画集や雑誌などで見ることが日本で学べる最大限のものでした。いま上野の東京藝術大学のそばに、国際子ども図書館というのがありますが、当時はそこが帝国図書館の本館として一般にも門戸を開いていました。青木繁はここに出入りして、たくさんの書物に学び、美術はもちろん、文学や歴史、神話など様々な領域の知識を蓄えたのです。青木繁の作品にみられるイギリス絵画、とくにラファエロ前派の影響や、神話的主題などは、こうした図書館通いから得た知識のひとつだったと言われています。」



最初の展示室では、中学時代のスケッチや東京美術学校入学前に通った画塾・不同舎時代の作品が並び、その並はずれた技量に眼が奪われます。
青木繁 《ランプ》 1901年頃 財団法人川村美術館初期の作品の中で、私は特に水彩で描いた《ランプ》に、気持ちが引きつけられました。当時どこでも見られたと思われる卓上のランプが3冊の本の上に置かれている様子が描かれているだけなのですが、水彩絵の具の持つ透明感でガラスの質感をよく捉えています。
「背景がバランスよく色面で構成されていて、抽象絵画のようにも見えるのですが、影や立体感のつけ方が優れています。
この1枚からでも、青木繁が当時どれだけの技術を持っていたかがわかります」と貝塚先生。たしかに背景は具体的な形をとっているのではなく、中間色とぼかしを多用した繊細な色面で、そこに本の側面の白さがシャープな印象を与えます。

静物画はスタイルとして古い、と思われがちで抽象画や現代風の表現に走る人が多いですし、リアルさを求めるなら写真の方が上でしょうと言われたり、また逆に眼に見えるものだけでは足りずにもっと描きこんで作りこんで、と手数を加えた作品などもあったりするようですが、こうして丁寧に描かれた作品を前にすると、やはり絵画には写真と違う神秘性が宿っていると実感します。
この1枚には、技術的な驕りもなく、素直に心に沁みてくるものがあります。特に背景の色面の美しさは新しい発見でした。

この展覧会では、素描や書簡、雑記帳などの展示が充実しているので、作品以外にも在りし日の青木繁を知る手掛かりがたくさんあります。
大学の仲間たちと小諸にスケッチ旅行に行った際の宿帳が展示されていました。当時の画学生はスケッチ旅行に出かけて技術を磨いたそうですが、青木繁も友人たちと群馬県の妙義山や長野県の小諸を訪ねています。
宿帳には丸野豊、坂本繁二郎と共に青木繁の名前が書かれていますが、それぞれ年齢が実年齢より上に、さらに職業欄は「画伯」となっています。

「俺たちは未来の画伯だぜ」「俺が一番年上だ」そんな声が聞こえてきそう…もしかしたらまだ少年のような線が残る体つきをしていたかもしれないのに、大人ぶってみせる姿が想像されて、ちょっとおかしくなりました。

東京美術学校を卒業した1904年の7月、青木繁は千葉県館山市の布良(めら)を訪れ、一ヶ月半ほど滞在し、
代表作《海の幸》を描きます。このときも美術学校の友人と恋人が一緒でした。

志を一緒にする仲間と過ごす時間は、若い時だけに許される特別な時間だと思います。本質的に画家は孤独なものです。孤独だからこそ切磋琢磨できる仲間がいることは心強く、それゆえに強がってみたりもします、虚勢を張っているというのとはちょっと違って、仲間とはいえライバルなのですから、自分で自分にエールを送るような気持ちです。才能を通して知り合う友と過ごす時間は、楽しさ、競争心の芽生え、これからの自分への不安・・・そうしたことのすべてが入り混じった濃密なものだったのではないでしょうか。

ここで青木繁にとって運命の女性、福田たね(1885-1968)についてお話しておきましょう。
福田たねは栃木の呉服屋に生まれ、18歳のときに絵を学ぶために上京し不同舎に入門、青木繁と出会います。青木繁は東京美術学校に入った後もしばしば不同舎を訪れていたそうで、才能に恵まれ、自信に溢れた彼は、たねにとって憧れの先輩であったでしょう。二人が恋に落ちるまで時間はかかりませんでした。
青木繁 《女の顔》 1904年 個人蔵(大阪市立美術館寄託)青木繁の描く女性像のモデルは彼女だと言われることが多く、この会場には《女の顔》という、たねをモデルにした作品があります。
「ヨーロッパの世紀末美術のひとつの主題に、ファム・ファタール=
「運命の女性」というモチーフがあります。当然、青木繁はそれを知っていて、
“ファム・ファタール”というモチーフとしての女性像と眼の前にいる福田たねの魅力をオーバーラップさせて描いたのでしょう。」と貝塚先生がおっしゃる通り、鑑賞者の方に顔だけをむけて、もの言いたげな 視線を投げかける彼女は、女性の私が見てもどきりとするようななまめかしさがあります。


この布良での滞在は、青木繁にとってひとつの頂点でした。東京美術学校を卒業し、画壇デビューも果たし自分なりに成長したという実感があり、さらに運命の女性とも出会い、自分を慕う後輩や共に絵の道に邁進する友人もいる・・・・、豪快な海の風景、気心知れた友人と恋人、評価されはじめた画業…まさに絶頂期でした。傑作『海の幸』はこのとき生まれます。
友人に宛てた書簡でも大作《海の幸》の制作にかかっていることを熱っぽく語っています。
今一度、《海の幸》を見てみましょう。
青木繁 《海の幸》 1904年 石橋財団石橋美術館
10人ほどの男達が大きな魚(それが鮫であったと今回初めて知りました!)を仕留め、浜に戻ってきた場面が 描かれています。赤銅色の肌の男達は、よくみると骨格や肉付きが異なり、ばらばらの年齢であることがわかります。実際より長く描かれた手足が、あたかも行進しているかのような整然とした流れを作り出しています。
が、後列に一人、観賞者の方を見ている人物がいます。他の男たちに比べ色白で整った顔立ちのこの人物は福田たねをモデルにしたと言われています。確かに他の男たちと比べると、中性的に見えるこの人物は行進している自分たちに視線が注がれているのを感じ、顔をこちらに向けた瞬間を切り取られたようです。画面を右から左へと進んでいくリズムがこの青年の部分で途切れます。その途切れた部分から波の音や人のざわめきが聞こえてくるようで、足元に波飛沫も見え、この部分だけが妙に現実感を伴っています。
そもそもこの絵は、布良に同行した友人、坂本繁二郎が海辺で人々が漁をするさまを見て青木繁に語ったところ、その話に想を得て描いたと言われています。(実際に坂本繁二郎が見た漁の様子は、もっと激しい海辺の労働の風景だったそうです。)
つまり青木繁は実際にこうした風景を見て描いたのではなく、布良の海岸や布良の漁師を描いたようだけれど、布良ではないどこかの海岸、布良の漁師ではない誰か海の民を描いたのです。
貝塚先生のご研究によると、布良にある安房神社では夏に大祭が催され、当時の神輿渡御が海の中へも進んで行ったそうで、青木繁は滞在中にこの神事を見て、《海の幸》のイメージソースとしたのではないかとのこと。 作品を描くために、自在にイメージを構成していくことができた人だったのだと思います。

青木繁 《海の幸》 (部分)1904年 石橋財団石橋美術館 《海の幸》ですが、布良で制作した2年後に、たねをモデルにした人物とその斜め前の人物(坂本繁二郎がモデルと言われているそうです)の顔を加筆しましたが、青木繁自身、この絵に買い手がついたら完成させると言っていたように実は作品としては未完成なのです。
確かにデッサンの線や塗り残しも見えますし、顔のディテールや足の先が描きこまれていない人物もいます。
貝塚先生に伺ったところ、この時代、作品を未完のままで残すことはほとんどなかったそうですが、青木繁は、当時の常識など意に反さず意図的に、この未完の状態で筆を置いたのにちがいありません。
何かに感動して心がまだざわめいている、創作の現場での高揚感が残る未完の作品は、独特の勢いに満ちていて、そのままの方が良い。後日加筆しても、かえって良さが失われてしまう、ということが多々あるのです。
そう思ったとき、ふと閃きました。
“この時代未完で残すことはあまりない”ことだったのであれば、私たちがいま、“作品が未完のままでもいい”と思うのは青木繁によって教えられてきたことなのでは?と。
未完だけれどもいまこの感じが良いのだと思う価値観は、学生時代からすでに私たちの中にありましたが、それが定着したのは、青木繁の作品に学ぶところが大きかったのかもしれません。最初に、青木繁は亡くなっても影響を与え続けている作家だという本展のコンセプトがありましたが、間違いなく、青木繁の絵に対する姿勢は私たちにも影響を与えているように思えます。

青木繁の作品は他にも色々なことを教えてくれます。布良滞在中に海を描いた作品が何枚かあります。とくに《海》は、点描のような独特のタッチです。色面で空、波、岩を捉えていく手法は、いま目に見えている海が描きたかったわけでなく、海の概念を描こうとしたかのようです。一瞬一瞬に姿を変える波のフォルムや、色、光の加減が描きたい対象で、その気持ちを満たすためであれば必ずしも眼の前の事象に忠実である必要はないのです。
それは時間や場所を超えて、ここではないどこか、今ではないいつかを描くものであっても一向に構わない。純粋に「描く」ことを楽しんでいたからこそ、さまざまな筆致でさまざまなものを描く、そこに青木繁という画家の尽きることのないエネルギーを感じます。

青木繁 《わだつみのいろこの宮》 1907年 石橋財団石橋美術館《海の幸》のあと、青木繁は日本神話を題材にした作品―これもまた有名な
《大穴牟知命(おおなむちのみこと)》《日本武尊(やまとたけるのみこと)》などを描きます。なかでも自信作だった《わだつみのいろこの宮》は、福田たねの実家の援助を受けながら、1907年に描いた作品でしたが、出品した東京府勧業博覧会での評価は三等末席、この頃から青木繁の人生に影がさしてきます。
《わだつみのいろこの宮》の評価に対する不満を新聞に発表し中央画壇を痛烈に批判し、画壇と決別してしまいます。同年、父親が危篤となり青木繁は、郷里の久留米に戻り、以後、福田たね、たねとの間にもうけた息子と会うことはありませんでした。
父の死後、故郷に留まっていた青木繁ですが、家族と衝突し、福田家との関係もこじれ、中央画壇へ復帰する夢も叶わず、九州各地を放浪、貧困と肺病に苦しむようになります。









青木繁の最後の作品《朝日(絶筆)》は、才能をたたきつけるように描いていた頃とは一転した穏やかさが画面を支配しています。当時であれば業病といわれた病にあって、いずれ訪れる最期の時を予感したからこそ、日々新たな希望に満ちる朝日を画題としたのでしょうか。 青木繁 《朝日(絶筆)》 1910年 小城高校同窓会黄城会(佐賀県立美術館寄託)
唐津で描いた作品だそうですが、朝の光を浴びる海原は唐津ではないどこか、病にあえぐ自分が今描いている景色だけれどこれは今ではないいつか、そんな絵を描きながら青木繁は、またいつかどこかで想いのままに筆を走らせる自分を夢みたかもしれません。
展示はこの《朝日》という、まったく趣の違う作品を最後に、ぷつんと切られたように終わってしまいます。なんだか気持はやるかたなく宙ぶらりん・・・。青木繁に対するイメージが強すぎたせいか、なんだか腑に落ちないような・・・でも命を終える、とは、きっとそういうものなのでしょう。どんな歴史に名を残す人物であっても。
青木繁は、傲慢なまでの自信に満ちた青春を走り抜けましたが、晩年は家族運も薄く、経済的にも恵まれることなく過ごしました。最後まで、自分はたくさんの星の中でもひときわ輝く綺羅星なのだと思うことが、彼の原動力だったのかもしれません。
学生時代お手本のように感じていた反逆と攻撃に満ちた青木繁の作品。しかしそれは彼の人生のほんのいっときのきらめきだった・・・今回の展示では彼が生身の人間であり、人生や制作に真摯に向き合い、悩み傷つき、また、それを乗り越えながら生きていく・・・青木繁にもまた人としての人生があったのだと知らされました。

「没後100年 青木繁展」
会期 2011年7月17日(日)~2011年9月4日(日)
休館日 月曜日
会場 石橋財団ブリヂストン美術館 (http://www.bridgestone-museum.gr.jp
東京都中央区京橋1-10-1
開館時間 10:00~20:00、日・祝日は18:00まで(入館は閉館の30分前まで)
入館料 一般 1000円、シニア(65歳以上)800円ほか
アクセス JR:東京駅(八重洲中央口)から徒歩5分
地下鉄: 東京メトロ 銀座線 京橋駅(6番出口)から徒歩5分





◆◇◆次回をお楽しみに!◆◇◆